カテゴリ: 長野
内田康夫の小説と木曽福島
句会でいただいた短冊の文字力
木曽へ吟行(俳句の旅)に行った話は、前回書きました。
その吟行から帰ってきて気がついたことがあったので、今回はそのことについて書こうと思います。
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その前に、私たちの句会のルールについて説明したいと思います。
先日の、木曽路を観光したあと宴会をしながら行った句会です。
まず、参加者が俳句を匿名で提出。
誰の俳句か分からない状況で、各人が互選で、それぞれ「天・地・人」(1位、2位、3位)を選び、寸評します。
ちなみに私たちは、「天」の賞品として、「天」に選んだ俳句を短冊(色紙)に書き、選者から作者へプレゼントすることにしてします。
この短冊、もらえるとなると、これがなかなか嬉しいものなのです。
木曽路の句会では、私の作ったある俳句がYまもとさんとMやさかくんから「天」に選んでもらいました。
かつて櫛(くし)問屋だったという建物で詠んだ一句。
《櫛を買う妾と妻に秋の旅 Kばやし》
江戸時代、漆塗りの櫛は木曽みやげとしてよく売れたのだそうです。
ちなみにYまもとさんとMやさかくんからいただいた寸評は、以下のとおり。
「(歴史資料のように生活感がなく)ツマラナイ奈良井宿の町並みから、強引に色気を詠んだという『荒技』が見事」
「『妾』を『妻』より先に書いたセンスに感心」
有り難いお言葉をいただきました。
それにしても、こんな俳句が「天」で採られるなんて、ふざけた句会です(笑)。
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話は逸れます。
だいぶ前のことですが、JR有楽町駅を歩いていたときのこと。
国際フォーラム口に「相田みつを美術館」がありました。
イーゼルには、みつをのポエム。
《つまがいたって いいじゃないか にんげんだもの》
頭の中で、漢字変換する私。
《妻がいたって いいじゃないか 人間だもの》
言葉を噛みしめる私。
「妻がいたっていいじゃないか・・・」。
つぶやく私。
「人間だもの・・・」。
なるほど。
「妻がいたっていいじゃないか」なのです。
「妻がいたって、過ちを犯すぞ」。「妻がいたって、道を踏み外すぞ」。「だってそれが人間だもの!」と、開き直るようなステキな言葉。
火遊びに惹かれる人間の真理をポエムにしたのか、みつをは。
深いなあ、みつをは。
気合が入っているなあ、みつをは。
にんげんだなあ、みつをは。
私はポスターの前で、感服のあまり拍手をしてしまいました。
そして、私は噛みしめるようにもう一度ポエムを読み直しました。
ん?
目をこする私。
《つまづいたって》?
なんと「つまがいたって」ではなく「つまづいたって」だったのです。
そっか〜「つまずいたって」かあ。
なーんだ・・・。
当たり前じゃん・・・。
普通じゃん・・・。
私は踵を返して、有楽町駅をあとにしました。
(みつを先生、読み間違えてごめんなさい)
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で、私の俳句《櫛を買う妾と妻に秋の旅》の話に戻します。
YまもとさんとMやさかくんが「天」に選んでくれた珍句です。
賞品として、YまもとさんとMやさかくんが短冊に《櫛を買う妾と妻に秋の旅》と書き、私にプレゼントしてくれました。
帰宅し、その短冊を片付けていると、おかしな発見をしました。
Yまもとさんの短冊をじっくりと眺めると・・・。
《櫛を買う妾と妾に秋の旅》
そうなんです、「妾と妾に」と書いてあったのです!
相田みつをのときと同じように、見間違えたのかと思い、目をこらしてみたのですが、本当に「妾と妾」でした。
となると、妻には櫛を買っていかないということになります。
しかも、妾を二人抱えているということになります。
へたをしたら、櫛を買ってやった妾が二人なだけで、妾はもっと大勢いるのかもしれないぞ。
これはタイヘンだ。
これはドン・ファンだ。
はたしてYまもとさんは酒を飲みながら短冊を書いたため、書き間違えただけなのだろうか。
それとも《櫛を買う妾と妻に秋の旅》よりも《櫛を買う妾と妾に秋の旅》のほうが優れていると添削してくれたのだろうか。
確かに《櫛を買う妾と妾に秋の旅》のほうが、より際どく、濃い味付けの俳句になります。
つまり、妾二人に櫛を買っちゃうのも「にんげんだもの」ということです。
木曽路吟行
台風一過。
長野県、中山道の木曽へ吟行に行きました。
吟行のメンバーは、大学のサークルゆかりの仲間(Hまくん、Mやさかくん)と、長野市の老舗和菓子屋のYまもとさんと電気屋のKぼさん、それと私の計5人。
木曽路には、風情のある中山道の宿場がいくつかあります。
図らずも、前々回の吟行が軽井沢、前回の吟行が姨捨、で今回が木曽という、どれも中山道沿いの旅行です。
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台風の猛威が去って、ぎりぎりまで吟行を決行するか延期するかで悩みました。
安否確認をして、句会のメンバーは運良く無事だったということが分かり、「それじゃあ行くか」。
まずは、奈良井宿へ。
木曽路は秋晴れです。
この数日で、急速に秋めいてきました。
日なたを選んで、ぞろぞろ5人で歩きます。
まずは、挨拶の一句。
《秋の日を背中に受けて奈良井宿》
木曽川で材木を運ぶために、イカダに乗る人を「中乗りさん」と呼ぶそうです。
木曽節に「♪木曽のな〜、木曽の中乗りさんは、ナンジャラホイ♪」という一節がありますね。
こんな日に句会を決行している我々の「どうでもいいぜ、行っちまえ!」という気持ちを、イカダの上の「中乗りさん」に託して、やけくその一句ができました。
《台風一過中乗りさんはナンジャラホイ!》
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私の俳句の特徴は、ケレン味のみ(まったく深みのないことでも定評があります)。
私は「俳句」という短刀を振り回し、美しい町並みからケレン味を切り取って句作することにしたのです。
ちなみに奈良井宿は、みごとに整理整頓され生活臭が感じられない場所でした。
ケレン味を重視して句作する私にとって、映画のセットのような町並みは、俳句を作りづらい環境です。
奈良井宿を散策していると、いまも泊まれる旅籠(民宿)を何軒か発見しました。
旅籠に泊まったであろう無頼の旅人の姿を想像して、一句。
《夜寒し枕元には仕込み杖》
ちょっと、作為がありすぎましたかね。
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漆塗りの櫛(くし)問屋だった建物を見学しました。
その中でも、漆塗りの櫛は、木曽みやげとして一世を風靡した銘品だったとか。
この櫛問屋は、製造から販売まで一貫して行い、財をなしたのだそうです。
ここで、一句。
《櫛を買う妾と妻に秋の旅》
妾を先にしたというのがポイントです。
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奈良井宿の中には、お寺が何軒もありました。
隠れキリシタンがお参りした名残です。
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続いて、「二百地蔵」を見学。
すると、あやしげな爺さんが近づいてきて「オレが案内してやるずら」。
ズタズタで泥で汚れたパジャマのような服を着て、互い違いのサンダルを履いた爺さんの風体を見て、いぶかしがる私たち。
すると、爺さん「カネはいらねえずら」。
爺さんのガイドは、いい加減なもので、「この石像は古いものみてぇずら。よく分からねぇが」だの「この小屋で女衆は集会したそうだ。知らねぇが」だの、あやふやな情報ばかり。
難しそうな顔で散策しているYまもとさんに対しては、「ヒゲの先生は何の先生ずら?」と、Yまもとさんを学者か何かと誤解している様子。
ただ、爺さんの言葉の中で、ひとつ心に残ったものがありました。
素朴な地蔵たちを前にして、「昔の娘たちは、身寄りのないところへ嫁にきて、こき使われたんじゃねぇのかなあ。話し相手もいねぇし。だから、ふるさとに電話をするような気持ちでお地蔵さんにお参りしたんじゃねぇかとオレは思うずら」。
お地蔵様は、身寄りのない娘にとって、故郷に繋がる公衆電話のようなものだったという話に、かつての信仰が実感でき、偲ばれたのです。
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そのわきには、かつて走っていたSLが展示されていました。
いまは、木曽路を「特急しなの」が走っていますが、数十年前は汽車が走っていたのです。
《赤とんぼ鞄に座り汽車を待つ》
「男はつらいよ」の寅さんを思い浮かべて、詠んだ一句。
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夕方。
奈良井宿を離れて、「寝覚めの床」へ。
木曽川にある奇岩の景勝地で、浦島太郎や役行者の伝説が残り、松尾芭蕉が訪れたことでも知られています。
白くうつくしい奇岩から転落すると、エメラルド色の木曽川に真っ逆さま。
ここで、一句。
《新豆腐崩して食べて寝覚めの床》
白い岩を、ダシに浮かぶ豆腐に見立ててみました。
芭蕉の句碑もありました。
庭を掃くおばあさんに話しかけると、松尾芭蕉の「更級紀行」を熟読している市井の学者でした。
二百地蔵の爺さんとは真逆で、控えめに信憑性のあるガイドをしてくれました。
いわく、この芭蕉の句は「寝覚めの床」で詠んだものではないが、芭蕉の弟子たちが「寝覚めの床」にふさわしい句であると言ったためこの地に句碑ができたという話。
いわく、芭蕉は中山道を歩いたのか、旧道を歩いたのか、諸説あるという話。
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盛りだくさんの散策を終えて、句会の会場である山奥の民宿へ。
台風一過で、私たち以外の宿泊客はすべてキャンセル。民宿は貸し切りでした。
囲炉裏にあたり、缶ビールを飲みながら句会はスタート。
匿名で俳句を提出。互選でそれぞれが天・地・人・並・並・並の6句選句し、講評します。
制限時間の中で、6句提出します。
選句をし、講評をします。
ありがたいことに、私の提出した句は、それぞれそれなりに点数をもらいました。
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(おまけ)
私が選んだ他の皆さんの句
《先生は何の先生ずら野分 Mやさか》
怪しい老ガイドのズッコケ感。
《赤とんぼ十字架として寺に舞ふ Mやさか》
マリア地蔵の景色。
《浦島の夢か奇怪なモニュメント Hま》
寝覚の床の浦島太郎伝説。
《秋暮るるマリオゲームで筋肉痛 Yまもと》
寝覚の床での岩から岩へ飛び移るときの実感。
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二次会は、塩尻の赤ワイン、白ワイン、日本酒の中乗りさんを、注いだり注がれたり。
寝覚の床でマリオジャンプしたにもかかわらずYまもとさんはハイペースで飲み、案の定「お先におやすみ」。
Kぼさんと、Mやさかくん、Hまくんとはあれこれ楽しく夜長の長話。
とはいえ我々も、台風一過で頭も体も疲労困憊。
健全に「おやすみなさい」。
松代散策と真田幸村の謀略
何日も前のことですが・・・。
吟行の翌日、松代へ散策に行きました。
松代は、長野市南部の真田家ゆかりの城下町です。
関ヶ原の戦いの前、上田藩主だった真田昌幸は息子2人と真田家を残すため身の振り方について話し合ったといいます。
父(昌幸)は次男(信繁)と共に西軍に、長男(信幸)は東軍に与し、どちらが勝ったとしても真田家だけは残そうと父子訣別をしたのです。
結果、戦は東軍が勝利。
生き残った長男(信幸)は、上田藩から松代藩へ移り、以降、松代は真田家が治める城下町になったのです。
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松代にて。
まずは、「真田邸」へ行きました。
金沢にある前田家の兼六園はすみずみまで豊かな文化を感じさせますが、それと比べると、真田家の「真田邸」はかなり質素です。
貧乏藩ゆえ殿様も地味だったのかななんて思っていました。
ところが、
「真田邸」のあとに訪れた「真田宝物館」のボランティアガイドの方(博学!)の解説によると、真田邸は、幕末のころに殿様の義母のために建てられた屋敷で、実際は数年しか使用されなかった建物だったとか。
殿様は、もっと広い「花の丸御殿」(いまは焼失)に住んでいたそうです。
もともと松代城に住んでいたものの、不便だったため「花の丸御殿」を作り移り住んだのだそうです。
贅沢なことに、ボランティアガイドの方の解説をつきっきりでみっちり聞きながら、宝物館の展示を見学しました 。
印象的だったのは、江戸時代の殿様はインテリで、例えば「源氏物語」を読み、書画や陶芸などあらゆる文化に精通した知識人(道楽者)だったということ。
私は心の中で「おみそれしましたー」と頭を垂れていたのです。
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「真田幸村の謀略」(東映)という、東映史観で歴史を描いた時代劇があります。
私は、この映画で真田家の歴史を歪んだ形で学んでいました。
松代の真田家の歴史は、真田昌幸(父)、真田信幸(長男)から始まりました。
東映の真田昌幸(御大・片岡千恵蔵)
東映の真田信幸(梅宮辰夫)
徳川家は豊臣家を破ったのちも真田家を警戒していたそうです。
そのため、真田家は上田藩よりも不便だった松代藩へ移されたようです。
徳川家康は油断しない男です。
東映の徳川家康(萬屋錦之介)
石田三成の頭蓋骨で、酒を飲む萬屋家康。
それにしても、役作りがトンチンカンな方向に振り切れています。
家臣に「酒の味はいかがですか?」と訊かれ、「うーん・・・カビ臭い」
わが句会の殿様も、樽酒と書かれたワンカップを後ろ手に「恩田家の屋敷」を散策。
私が「おいしいですか?」と訊くと、「なかなかいい味」
松代の町には、真田家の重臣の屋敷が何軒も残っており、見学できるようになっています。
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象山神社に向かいます。
幕末の志士、佐久間象山を祀った神社です。
皆で手を合わせて、参拝。
帰り道、「何を祈願したか」という話題になりました。
Kぼさんいわく「佐久間象山先生より長く生きているから、なにもない」。
願うとすれば、「平和」くらいのものだそうです。
私はといえば、
いつも、神社で手を合わせてから初めて何を祈願するか悩み、「酒池肉林にしようか、でも、本当に酒池肉林になったらマズイな、酒池肉林が現実になったら地獄だぞ、どうしよう・・・」なんて考えているうちに手を合わせる時間が終了してしまうのです。
考えてみると、神様にお願いしたいことなどないのかもしれないですね。
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象山神社の敷地内に「努力・勇気・情熱」の石碑を建てる予定があるとのこと。
(松代とゆかりがあると思えない幕末の人気者たちの銅像も次々建つのだそうです)
なんだか「努力・勇気・情熱」という、まるで週刊少年ジャンプの方針のような、標語のような石碑を建てるセンスに、私は口をあんぐりさせながら象山神社をあとにしました。
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さて、「真田幸村の謀略」の結末はどうなったか。
東映史観の大阪夏の陣。
どういうわけか、真田幸村と徳川家康の一騎討ちになります。
真田幸村(松方弘樹)
徳川家康(萬屋錦之介)
萬屋家康の首を目がけて、斬り込む松方幸村。
家康の首を一刀両断。
すると、萬屋の頭がポーンと上空へ。
まるで、首がシャンパンのコルクのようにポーンと舞い上がります。
たがやー。
(物理的におかしい)
つくづく東映の時代劇は歴史の勉強の教材に最適ですね。