カテゴリ: 千葉
成田山散策(岩下志麻、転読祈願)
誕生寺と萬屋錦之介(鴨川散策)
房総半島旅行(その2)
鴨川市を観光しました。
鴨川出身の有名人といえば・・・・・・、
そうです。日蓮聖人です。
鴨川に「鯛ノ浦」と呼ばれる海岸があり、その目の前に日蓮聖人の生家があったとか。
いま、日蓮の生家は「誕生寺」という立派なお寺になっています。
鴨川の朝日に向かって、萬屋日蓮は叫びます。
「われ、これより日蓮と名のらん!」
そして、
「なん、みょー、ほー、れん、げ、きょー!!」。
萬屋の顔の力に痺れます。
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誕生寺の中には「鯛塚」と呼ばれる、鯛の墓がありました。
この地には鯛信仰があるようです。
「鯛塚」の説明看板によると、
日蓮が生まれた瞬間、《聖人の生家前に広がる浦には、大きな山が崩れたかと思われるほどの轟音とともに、金色に輝く五尺あまりもある雌雄2匹の鯛が、海中から飛び跳ねた》
この「奇跡」のために、誕生寺の前の海岸は、「鯛ノ浦」と呼ばれるようになったようです。
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そのほかにも日蓮聖人にまつわる奇跡(伝説)は、たくさん残っています。
映画「日蓮」の中で、とくに私が気に入っている「奇跡」を紹介したいと思います。
島流しにあった日蓮(萬屋錦之介)。
そこに西村晃が、萬屋を暗殺をしようと、刀で襲いかかります。
数珠によって成敗された西村は、萬屋の門下になりました。
さすが、萬屋!
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日蓮聖人が生まれた「誕生寺」には、二股に分かれた立派な松がありました。
たしかにこの松、分娩中の妊婦の下半身に見えますね・・・。
妻君は、日蓮に対して全く関心がなく、分娩をしているような松があるから「誕生寺」なのだと主張したのです。
驚きの主張です。
でも、ひょっとしたら、「誕生寺」の由来について、日蓮の生誕地というのは後付けで、二股の松の存在が先行していたという説、真理かもしれませんね。
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誕生すれば、死もあります。
映画「日蓮」では、入滅(日蓮がお亡くなりになる)シーンも描かれています。
弟子たち向かって、萬屋日蓮は病床で「私の夢をお伝えください、お伝えください・・・」と弱々しく呟きます。
ついに没するのかと思いきや、突然起き上がり、
死の直前で萬屋の顔面エネルギーはMAX。
熱演、というより怪演です。
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誕生寺の本堂に日蓮宗の公式アプリの宣伝ポスターが貼られていることに気がつきました。
早速ダウンロードしました。
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帰り道。
車で運転中、「日蓮」という名前の交差点を発見。
(ちなみに、私は日蓮宗ではありませんが・・・)
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ところで萬屋錦之介は、日蓮宗の信者なのだろうか?
「勝新太郎対談集」の中で、勝新太郎は瀬戸内寂聴と対談しています。
《勝「(京都駅で)風体の悪いやつが向こうからコートの襟立ててワーッと歩いてくる。どっか、神戸の山口組のところの若い衆かなと思ったら、これが萬屋錦之介なんだね」》
勝は、萬屋に、俺はさっきまで仁和寺に参拝していたと伝えたのだとか。
すると、萬屋もこの日仁和寺に参拝していたと答えたのです。
そこで勝は、仁和寺でもらった大日如来の仏像を萬屋に見せたといいます。
《勝「(仏像を)見せてやったら、いきなり新幹線のホームのところに土下座しちゃって、「南無・・・・・・ムニャムニャ・・・阿弥陀ウンケンバタラダテバ・・・・・・」って手を合わせて拝むんだね」》
《勝「(必死の形相で)こんなことしてね。あ、こいつももうじき倒産するなと思ったね、そんな神頼みしているようじゃ。それからさ、新幹線にあるありったけの酒を全部買い上げちゃってさ、二人で飲んだんだよ。・・・・・・その二日ぐらい後に錦之介は倒産しちゃった(笑)」》
これは、萬屋錦之介が経営していたプロダクションが倒産したときのエピソードなのですが、抜群にいい話です。
この勝新太郎の証言によると、仁和寺は真言宗ですし大日如来も真言宗の本尊なので、萬屋錦之介は日蓮宗ではなかったのではないかと私は推断しました。
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(おまけ)
鴨川シーワールドへ行きました。
すばらしい水族館です。
係員いわく「水槽の水で座席がぬれますのでご注意下さい。バケツの水を何杯もかぶるようなイメージです。後方の席のお客様も靴の中までびしょぬれになります。必ずカッパを着てご観覧下さい」とのこと。
係員の注意は脅しなどではなく、事実そのものでした。
巨大なシャチがジャンプするたびに、津波のような水しぶきが客席に襲いかかります。
ずぶ濡れになるシャチショーは、鴨川シーワールドの名物アトラクションのようです。
シャチが飛び跳ねるたびに客席は悲鳴。
客席「きゃー!!」
一方、私は「南無妙法蓮華経!」
日蓮聖人が生まれた瞬間、大きな鯛が轟音とともに海面から飛び跳ねたという伝説があります。
大きな鯛と同様に、シャチもジャンプ!
そのとき、私に萬屋日蓮が乗り移ったのでした。
「なむ、みょー、ほー、れん、げ、きょー!」
木更津散歩(證誠寺、小沢昭一)
5月の連休。
旅先での昼過ぎ。
私はひとりで木更津を散策しました。
(妻君と息子(3才)は、遊び疲れて車中で爆睡)
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ほかの観光地の大混雑と比較してしまうせいか、木更津はずいぶんさびれているように感じました。
駅前は、閉まっているシャッターが目立ち、ほとんど人は歩いておらず、閑散としていました。
(町の中心が郊外へ移ったことも原因だろうと思いますが)
ただ、さびれている町並みなのですが、どういうわけかキャバクラやラブホテルだけはピカピカの店構え。
風俗店の数があきらかに多いのです。
氣志團(木更津で結成されたヤンキーバンド)を生んだ土地であるのも納得です。
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木更津駅のそばに、證誠寺(しょうじょうじ)というお寺があったのでお参りすることにしました。
證誠寺に着くと、庭先にラブホテルがドーンと建っていました。
このお寺は、童謡「しょうじょう寺の狸囃子」のモデルになったお寺とのこと。
「しょうじょう寺の狸囃子」の、作詞は野口雨情、作曲は中山晋平。
ゴールデンコンビです。
♪しょ しょ しょうじょうじ
しょうじょうじの 庭は
つ つ 月夜だ
みんなでて こいこいこい
おいらの 友だちゃ
ポンポコポンの ポン♪
タヌキをヤンキーに置き換えて解釈してみます。
真夜中に、キャバクラやラブホテルから出てきたヤンキーたちが悪ノリをして大騒ぎしている様子が目に浮かびます。
「木更津キャッツアイ」(宮藤官九郎脚本のドラマ)の中で、ときどきタヌキの置物が登場するのですが、出典は證誠寺だったようです。
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私の脳裏に、かつて私が住んでいた沼津の風景が重なりました。
沼津もやはり、木更津と同じ港町。
私の記憶では、当時、沼津の海沿いにソープ(風俗店)の看板が立っていました。
そこには、「木更津よりソープ嬢を派遣」という宣伝文句が書かれていたのです(たしか)。
かつて、港町は男性人口が多かったこともあり、風俗店の数に影響しているのでしょう。
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木更津と風俗。
さらに、別の記憶が蘇ってきました。
小沢昭一(俳優・ラジオパーソナリティ)は、絶滅しそうな放浪芸を取材し、記録するのをライフワークにしていました。
芸能の原点として、神事、お坊さんの説教、シャーマン(いたこ・ユタ)、演芸、露天商の啖呵売、スポーツ、風俗(トルコ・ストリップ)などを並列に、平等に、記録しています。
小沢さんによると、神が憑いたように踊るストリッパーは、神事(芸能)を行った巫女の末裔とのこと。
《わが国でもやはり、巫女さんが芸能のはじまりである、というふうにいわれております。》
《戦後間もないころ、早稲田の河竹繁俊先生が、日本演劇史の講義で、アメノウズメノミコトはストリップの元祖だとおっしゃったとき、学生はどよめいたものであります》
(「ものがたり 芸能と社会」小沢昭一より)
小沢昭一は、ストリッパーの一条さゆりを芸人(表現者)として最大級に評価していました。
一条さゆりは一世風靡します。
しかし、あるとき一条さゆりの舞台はワイセツ罪にあたるとされ、逮捕されたのです。
そんな折、木更津の「木更津別世界」というストリップ小屋が、一条さゆりに復帰の舞台として正月興行の出演のオファーをしました。
(「木更津別世界」のオーナーである桐かおるも、ストリッパーの第一人者でした。)
小沢昭一は、放浪芸(一条さゆり)の取材で「木更津別世界」へ出向きます。
(「昭和の肖像 町」小沢昭一より)
小沢昭一と同行した市川捷護によると、《1月5日、木更津は正月ということもあり静かな街だった。》
《舞台裏の一条さんを訪ねると、突然の小沢さんの訪問にびっくりしながらも、(一条さゆりは)とても嬉しそうな様子》だったとか。
舞台に上がった小沢昭一は、開口一番《「えー、刑事さんはいないでしょうね」》と言い、爆笑をさらったそうです。
(「回想日本の放浪芸 小沢昭一さんと探索した日々」市川捷護より)
《歌舞伎でも、その発生期の阿国歌舞伎(おくにかぶき)といわれるものは売春兼業の、わいざつハレンチなミセモノをやっていた》にすぎなかったとか。
江戸時代、ワイセツだからという理由で、お上の弾圧があります。
一条さゆりの逮捕と似ていますね。
江戸時代、《遊女歌舞伎が禁止されると、女がダメなら男があるさで、若衆歌舞伎が生まれ》ましたが、それもワイセツだったり男色により風紀が乱れるという理由で弾圧されると、
《今度は前髪をおとせば若衆じゃござんせんで、野郎頭の野郎歌舞伎に変幻》、かえって洗練されて人気が集まったそうです。
(「私のための芸能野史」小沢昭一より)
《芸能を活気づかせ、オモシロクさせるのは、お上の取り締まりのあずかっているところも大きい》という小沢昭一。
こういうスケール観にほれぼれします。
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初めて訪れた木更津なのに、散歩をしているうちに、いろんな記憶がほぐれて、脳裏に現れてきました。
面白いものですね。
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(おまけ1)
旅先のホテルにて。
テレビをつけると、BSで「男はつらいよ 寅次郎紙風船」が放映されていました。
酒を飲みながら見ていると、
寅さんの旧友の役で登場。
木更津で蘇った小沢さんとの嬉しい再会でした。
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(おまけ2)
木更津に来る前、房総半島のマザー牧場へ行きました。
マザー牧場ではしゃぎ疲れた妻君と息子が眠ってくれたおかげで、私は静かに木更津の散歩ができたのです。
そのとき息子(3才)が、小林旭の「赤いトラクター」という曲を歌い出したのには、驚きました。
普段、私が歌ったり聞いたりしている曲を記憶していたのです。
「赤いトラクター」小林旭(歌詞)
♪風に逆らう 俺の気持ちを
知っているのか 赤いトラクター
燃える男の 赤いトラクター
それがお前だぜ いつも仲間だぜ
さあ行こう さあ行こう
地平線に立つものは
俺たち二人じゃないか♪