10日ほど前のこと。
秩父へ出かけました。
秩父の山奥にある三峯神社へ車で向かっているとき、妻君に訊かれました。
「お彼岸ってそろそろ?」
「そうだよ。なんで急に訊いたの?」
「彼岸花がたくさん咲いているから」
道の脇に目をやると、彼岸花が咲いていました。
彼岸花というだけあって、お彼岸に合わせたように咲くんですね。
彼岸花を眺めながら私は金子兜太の俳句を思い出していました。
《曼珠沙華どれも腹出し秩父の子》
金子兜太は秩父出身の俳人です。
(曼珠沙華は彼岸花のこと)
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車で山道を進み、三峯山を登っていきます。
オオカミ信仰で知られている三峯神社に到着。参拝をしました。
(三峯神社については、前回の記事に書きました)
そういえば金子兜太に
《おおかみに蛍が一つ付いていた》
という俳句があることを思い出した私。
金子兜太は秩父の人ゆえ、なおさらアニミズム的なオオカミ信仰を感じました。
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三峯神社からの帰り道。
道を間違えて、車でぐるぐる山道を迷っていました。
秩父の皆野町に「道の駅」があったので、そこで一休みすることに。
道の駅にあったパンフレット。
「秩父音頭のしおり」
秩父音頭は、秩父地方の伝統芸能です。
パンフレットに秩父音頭の家元という金子千侍さんの文章が載っていました。
《この歌と踊りの発祥については必ずしも定かではありませんが、今からおよそ200年前の文化文政期とされています。(中略)。昭和初期、長い年月によって変貌衰退したこの踊を、皆野の俳人金子伊昔紅(かねこいせきこう)が、自らの作詞と公募した歌詞、吉岡儀作の節をもって、秩父豊年踊りとして再び公の場に披露したのです。》
この文章の中に出てくる秩父音頭を復興させた俳人の金子伊昔紅は、医師でもありました。
医師であり、俳人であり、秩父音頭を復興させた文化人の金子伊昔紅は、実は、金子兜太のお父さんなのです。
金子兜太は、豪快な俳人として知られていますが、キャリアは東京大学から日本銀行に勤めたというエリートでもあります。
金子家は、秩父の名門だったのかもしれませんね。
ちなみに、パンフレットの文章を書いた金子千侍(秩父音頭の家元)は、金子兜太の弟です。
金子千侍は医師で、伊昔紅の病院(金子医院)の跡を継いだ人物です。
金子兜太は、名門の長男だったのにもかかわらず、医師にならず俳句というヤクザな道に進みました。
以前、金子兜太の講演を聴きにいったとき、お母さんの話をしていました。
103才で亡くなった兜太のお母さんは、兜太が顔を出すと「与太が来た、バンザイ!」と言ったのだそうです。
《夏の山国母いてわれを与太と言う》
という金子兜太の句があります。
「道の駅」にはこんなパンフレットもありましたよ。
秩父の皆野町には、金子兜太の句碑がたくさんあるそうです。
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皆野の町は、どこか懐かしく、寅さんが歩いていそうな雰囲気の町です。
ふらふらしていると、金子兜太の生家を発見!
「壺春堂医院」
お父さんの金子伊昔紅はここで句会をしたようです。
無論、観光客の来るようなところではなく、案内看板のようなものは何もありませんでした。
「壺春堂医院」の裏に、いまも営業しているとおぼしき金子医院がありました。
金子医院の診療時間をみるとほとんど開いていないようです。
きっと、一人暮らしのお年寄りのお宅を往診して回るようなお医者さんなのかな、なんて想像しました。
こぢんまりとした金子医院の目の前に、巨大な総合病院がありました。
金子医院は、軍艦に立ち向かうイカダのように見えました。
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実際に見ることはできませんでしたが、金子医院のそばに、
《よく眠る夢の枯れ野が青むまで》
の句碑があったようです。
社会人になったばかりのころ。
大学を卒業してサラリーマンになり、昼も夜もなく働いているうちに、朝、起きられなくなったことがありました。
遅刻しては叱られました。
休みの日は、一日中ふとんの中。
《よく眠る夢の枯れ野が青むまで》
間違った読みかもしれませんが、当時、ふとんの中の私は、この俳句に孤独を慰めてもらった。そんな記憶があります。
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道に迷ったおかげで、秩父音頭の由来を知ることができたり、金子兜太の生家を見ることができたり、ついでにサラリーマン時代の苦い記憶が蘇ったり、楽しい巡り合わせがありました。
いま思うと、これも、オオカミのお導きだったのかもしれませんね。
(おまけ)
金子兜太講演会のこと
http://kebayshi.blog.jp/archives/1031864580.html