厄除け日記 (by Kばやし)

厄除けのように、好きなことを集めて書きます。 30代。 俳号は軽囃子(けいばやし)

カテゴリ: 諏訪

学生時代の友人Aしざわさんと、

日本民藝館へ行きました。


日本民藝館は、柳宗悦(民藝運動の提唱者)の自宅を移築し博物館にしたものです。

「民藝」というのは、飾るだけの美術品よりも、生活の中で使われる工芸品にこそ「美」が宿っているという思想です(と、私は思っていますが違いますか?)。


日本民藝館のパンフレットによると、

《民衆の用いる日常品の美に着目した柳宗悦は、濱田庄司や河井寛次郎らとともに無名の職人達が作った民衆的工芸品を「民藝」と名付けた。》

《民藝館設立以後の柳の主な活動としては、日本各地への工芸調査や蒐集の旅、沖縄への工芸調査と言語政策(方言)をめぐる論争、アイヌや台湾先住民の工芸文化の紹介、茶道改革への提言などがあげられよう。また、民藝運動に参加したバーナード・リーチ、濱田庄司、河井寛次郎、芹沢銈介、棟方志功、黒田辰秋などの工芸作家は、実用を離れた当時の工芸の在り方に一石を投じるなど、日本の近代工芸界に大きな流れを作っていった。》


柳宗悦のことは、鶴見俊輔の書いたもので知りました。

東京帝国大学のエリートである柳が、日本中を巡り「民藝運動」を先導したというところに魅力を感じます。


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ちなみに、

私の敬愛する小沢昭一は、俳優という自身の仕事のルーツを探るうちに、「芸能」の本来の姿は祈祷や祭事、啖呵売のような暮らしの中にあると考えました。

こうして、小沢昭一は、滅びゆく暮らしの中の芸能(放浪芸)を記録するしていくのをライフワークにしたのですね。

柳宗悦は「民藝」(手仕事の文化)を発見し再評価しましたが、これは、小沢昭一の「放浪芸」収集に重なるように思います。


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日本民藝館の展示の中に、木喰上人に関するものがありました。

木喰は、日本中を旅し、ヘタウマな仏像を大量に製作した僧侶として知られています。 


ウィキペディアによると、

《特定の寺院や宗派に属さず、全国を遍歴して修業した仏教者を行者あるいは遊行僧(ゆぎょうそう)などと称したが、木喰はこうした遊行僧の典型であり、日本全国を旅し、訪れた先に一木造の仏像を刻んで奉納した。》


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話は変わるようですが、

昨年、下諏訪に行ったときのこと。


諏訪大社・秋宮のわきの宿場を歩いていると、地元のおばあさんと出会い、立ち話になりました。

おばあさんの自宅は、もともと「花屋茂七館」という宿だったとのこと。


招待されるまま、おばあさんの自宅に入ると、手作りのパンフレットをいただき、奥のこぢんまりとした展示室へ通されました。


いただいたパンフレット。

《木喰上人作 虚空蔵菩薩像 常設展示》


江戸時代、木喰が下諏訪に訪れた際、奉納した仏像が展示されていました。


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気になったのは、諏訪大社のお膝元(神道の聖地)である下諏訪で、仏像が奉納されたということ。


ご主人に尋ねたところ、

宿屋に残っている掛け軸も、仏教、御嶽信仰、神道などモチーフは様々で、おおらかにあらゆる宗教が信奉されていたことが分かります。

(現代は、信仰を合理的に整理整頓しすぎですよね)


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ところで、

大沢在昌のハードボイルド小説、「新宿鮫シリーズ」の大ファンである私。

主人公は、警視庁のキャリアだった鮫島。

鮫島は、どういうわけか新宿署(所轄)の刑事に降格させられます。

しかし、エリートの鮫島は信念を曲げず、所轄でも歌舞伎町などの悪所で大活躍するのです。


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「貴種流離譚」という話型があります。

ウィキペディアによると、

《神話的英雄の苦難の冒険の物語については、ギリシア神話や日本の神話にも例が見られ、「高貴の血脈に生まれ、本来ならば王子や王弟などの高い身分にあるべき者が、『忌子として捨てられた双子の弟』『王位継承を望まれない(あるいはできない)王子』などといった不幸の境遇に置かれ、しかし、その恵まれない境遇の中で旅や冒険をしたり巷間で正義を発揮する」という話型を持つものがある。

これら神話をモチーフにしたさまざまな派生・創作作品についても、貴種流離譚と表現することがある。》


つまり、「貴種流離譚」とは、王子様のようなエリートが冒険をする話型のこと。

水戸黄門や東山の金さんなども、その典型ですね。


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鶴見俊輔の書いたものによると、柳宗悦は、東京帝大でも成績抜群のエリートだったのだとか。

そんな柳が、日本各地に出没し、自分の美意識を信じて「民藝運動」を先導しました。 


なんとなく柳宗悦に惹かれるのは、まるで「新宿鮫」だからだと思うのです。

まさに、「貴種流離」。


木喰の生き方もそうかもしれません。

(ちなみに、「貴種流離」に関していうなら、鶴見俊輔の生き方は「新宿鮫」なんてもんじゃないと思います)


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とはいえ、

志しの高い日本民藝館の展示は、作家性に乏しく、つまり個人のドラマ(ゴシップ)が全くないのです。

そんなわけで、私や同行のAしざわさんのような、週刊誌を愛好する人種にとっては退屈な展示でもありました。


日本民藝館のすぐ近所に、日本近代文学館があります。


私とAしざわさんは、日本近代文学館へ足を運びました。

そこでは、ヘラヘラ笑いながら展示を見ては、作家たちのゴシップを言い言いすることができるのですね。

「やっぱりこっちの方がホッとするなー」



喫茶店の店名は「BUNDAN」。


生まれも育ちも高貴でない私は、流離することなどもちろんなく、精神についてはむしろ下賤かもしれない、

そんなことを思った秋日和の一日でした。


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少し前の話ですが、
友人たちと諏訪の神長官守矢資料館へ行きました。

初老で小太り、メガネをかけた学芸員さんが一人で切り盛りしていました。
この資料館は、入口から奥まで見渡せるほどの小さな資料館です。

神長官守矢資料館の「神長官」というのは諏訪大社の催事を管理した役職のことで、「守矢」というのは神長官を勤めてきた一族の名前です。
そんなわけでこの資料館は、守矢さんのお宅の脇に建てられています。

敷地の奥には、ミシャクジ社と呼ばれる小さな神社(祠)がありました。
諏訪という古代からの信仰の場所らしく、動物の骨や木の実が置かれていました。
(いまでも、動物の骨や甲羅の割れ方で吉凶を占う神事があるらしいですね)

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資料館の展示の、古代の催事の再現は興味深いものでした。
同行した友人たちと、感心しながら眺めていました。

すると、
手持ちぶさただったのか、初老で小太り、白髪の学芸員が近づいてきました。
学芸員「資料館の裏のミシャクジ社へは行ったかね?」
突然の問いかけに、戸惑いながらうなずく私たち。
学芸員はニヤリと笑い、
「ミシャクジ社へは日本中から参拝者が来るんだ。それだけご利益があるっちゅうわけ。タイヘンなご利益があるために、多くの参拝者がお礼参りにも来るんだ。当方も毎日お参りしているんだが・・・、ただ、当方にはご利益がないっちゅうわけだ!はっはっは!」

小さな資料館でこのような怪人物に出くわすとは思いませんでした。
瞬時に私は、この学芸員(怪人物)は閑職に追いやられた市の職員ではないかと推断したのです。

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神長官守矢資料館は、設計士の藤森照信さんの出世作になった小さな資料館とのこと。
(ちなみに、藤森照信は茅野出身で毎日新聞の書評委員でもあります)

福々しい顔で学芸員は、獲物を見つけた熊のように私たちを追い詰めて、話しかけてきます。
「この資料館は藤森建設の原点だっちゅうわけ。藤森さんはいまや世界でも超一流の建築士だが、この建物は藤森建設の原点なんだ。そんなもんで、藤本さんが超一流になる前、当時は市議会で『こんなヘンテコな倉庫みてえな資料館、建て替えろ』っちゅうわけ。いまや世界中から藤森建設の原点を見るために人が集まってくるっちゅうわけだ。はっはっは!」

その学芸員によると藤森照信は、赤瀬川源平の自宅や、養老孟司の自宅も設計したそうです。
いわく「『バカ』で儲けた養老先生の自宅も、藤森建設っちゅうわけ」

守矢資料館の脇に、藤森神社(鳥居にも「藤森神社」と書いてあります)を発見。
藤本照信の血筋と関係があるとか。

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神長官守矢資料館には、
戦国時代に武田信玄(武田家)から守矢家に送られた書状が何通もありました。
武田家だけではなく、多くの戦国武将からの書状が展示されていました。

私たちは感心して書状を眺めていると、またも、恰幅の良い学芸員が近づいてきます。
「この書状は、武田晴信が戦の前に、守矢家に『祈祷して戦に勝つために願をかけてくれ』と依頼した書状だっちゅうわけ」
諏訪信仰は、当時から広く浸透していたのですね。

別の書状を指差し、
「こちらの書状には『戦が長引いているのは守矢さんの祈祷が足りないんじゃないか』と書いてあるっちゅうわけ。『もっと祈祷してくれ』っちゅうわけだ」
そりゃ、命がけの戦だから神や仏に祈りたくもなるよなあ、と思いました。

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話は、変わります。

数日前、日本を代表する有名な経営者の講演会へ行きました(義理で)。
その講演会で、成功者数名のお話を聴きました。

その話を聴いて、
全国規模で成功した経営者は、競合する他社と殺るか殺られるかという戦いに勝ち続けた人だ、という印象をうけました。
シェアを広げるために、投資をし利益を出すというサイクルを繰り返す。
そのためには他社との丁半博打に勝ち続けなければいけません。
全国規模に会社を拡大させた経営者は、現代の戦国武将のようでした。
(成功者は、総じてテンションが高く、聴衆を高揚させる雰囲気を持ち、勝負に勝ち続けてきた自信に満ちていました)
勝つということは、敗者を生み出すこと。
つまり、他社を廃業や縮小に追い込むことでもあります。
そんなこともあり成功者が現代の戦国武将に見えたのですよ。

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この講演のおみやげとして、
ある経営者から中国の故事(中国思想)の本をいただきました。
いわく、迷ったとき中国の思想家の言葉を頼りにしてきたのだそうです。

また、別の経営者は座禅をしているといっていましたし、さらに別の経営者は、キリスト教の倫理感を重視しているといっていました。
(仏教や神道の教えを大切にする経営者はたくさんいますね)

自身の不安を払拭するためなのか、戦国武将のようにプレッシャーの中で生きる人には宗教や思想が必要なのかもしれませんね。
(ということは、無宗教、無思想で生きていけるいまの日本は、それなりに平和なのかもしれません)

それでも戦国武将のような血で血を洗うような生活(「成功」と「転落」が紙一重の生活)を選ぶ人がいるということは、高揚感や恐怖心には中毒性があるのかなあと感じました。

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この講演会のとき、
私は、現代の成功した経営者の信心深さと、武田信玄が戦の前に守矢家に書状を送ったというエピソードを重ねていたのでした。

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話は、諏訪に戻ります。
(毎度のことながら話が行ったり来たりでスミマセン・・・)

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神長官守矢資料館を見物してから、私たちは酒蔵へ行きました。
というのも、その夜、宿泊する宿で飲む日本酒を調達したかったから。

諏訪は酒どころ。
酒蔵がいくつもある土地です。

酒の文化があるというのは、豊かな地域であっただけでなく、諏訪大社など信仰の篤い土地であるということも関係しているように推理しました。
神事には酒がつきものですから。
そんなわけで日本酒が生活にしみこんでいるんでしょうか。

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神長官守矢資料館の展示のメインは、古代の神事を再現したものです。

いまでもミシャクジ社には、動物の骨がまつられていましたが、かつて、神事になると諏訪の神社では動物の首を並べたそうです。
(そんな生け贄の名残が、御柱だという説もあります)
(動物の頭をまつった神事を再現した展示)

このような催事の記録を残したのは、菅江真澄とのこと。
菅江真澄は江戸時代、東北地方を旅し、生活の記録を残したことで知られる旅行家です。
学芸員「この展示は菅江真澄の記録を元に再現したっちゅうわけ」

菅江真澄は、東北へ旅をした人という印象でしたが、長野(諏訪)にも来ていたのですね。

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ということは・・・、そうです。
諏訪で最も有名な日本酒は「真澄」ですね。
いままで私は、「澄んだ味わい」であるから「真澄」と名付けられたとばかり思っていました。

しかし、「真澄」はきっと菅江真澄からいただいた名前なのかもしれないと気がついたのです。
(あくまで私の推察ですが)
「真澄」が菅江真澄由来だと、なんだか気楽に酔っ払えない語感になりますね。
ま、「真澄」が岡田眞澄由来の名前だとしたらひっくり返りますけど。
でも、神長官守矢資料館の学芸員、どことなく岡田眞澄にも似ていたような・・・・・・。 


秋の夜長には、なんだか日本酒が飲みたくなりますね。

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「下諏訪旅行1」の続きです。
http://kebayshi.blog.jp/archives/1059245256.html

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数百年前に誰が制作したのか分からない「万治の石仏」と呼ばれる石仏が下諏訪にあり、それを見物しにいきました。
下諏訪を訪れた岡本太郎が不思議な造形の「万治の石仏」を絶賛したことによって、再発見されたそうです。

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その石仏を見に行くと、露天商のオバサンがいました。
露天商のオバサンは六十路。短いパーマで、ガラガラ声。

露天商のオバサンは、さっそく私に万治の石仏グッズを売り込んできましたよ。
(寅さんばりの啖呵売で)

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(1)万治の石仏を萌えキャラにしたフィギュア(人形)の売り口上
露天のオバサン「これは若い子たちに人気があるんだよー。サービスエリアで買うよりもここが一番安いんだって。さっきも若いお姉ちゃんがここの値段を見て『ここで人形を買えば良かったー』って。『サービスエリアで買って失敗したー』って。『ホントにここで買っていれば良かったなー』って。そう言ってたよ。だから、絶対にこれはオススメ!!嘘じゃない!」
私は思わず笑いながら、「フィギュアには興味がないんです(笑)」と答えました。

すると、
露天のオバサンは、売り込み商品を変えてきたのです。

(2)万治の石仏ストラップの売り口上
露天のオバサン「このストラップはなんといっても丈夫なんだねー。私もポーチのチャックのところにつけて何年にもなるけど壊れないんだねー。洗濯機に入れても壊れない。何をしても壊れない。自分で試して自信があるからオススメできる!自信がなかったらオススメしない!!絶対にオススメ!!嘘じゃない!」
私は笑いが止まらない状態で、「私は携帯電話にストラップつけないんですよぉ(笑)」 

めげないオバサンは、さらに売り込み商品を変えてきました。

(3)万治の石仏キーホルダーの売り口上
露天のオバサン「このキーホルダーが若い人の中で、はやっているんだねー。腰のベルトの金具にキーホルダーをつけるのが若い人に大人気なんだねー。さっき若いお兄ちゃんが来て『おばちゃん見てー』って。『カッコイイでしょー?』って。シャツをめくり上げてベルトにつけたキーホルダーを見せてくれたんだねー。若い人には絶対にオススメ!嘘じゃない!・・・嘘だと思ってる?嘘じゃないよ!これは絶対に嘘じゃない!」
私はゲラゲラ笑いながら、「要らないです(笑)」

それでもくじけないオバサンは、またまた売り込み商品を変えてきました。

(4)カリンのど飴の売り口上
露天のオバサン「このカリンのど飴はもう絶対に効く!私は花粉症で長年クシャミが止まらなくて悩んでいたんだけど、この飴を2~3粒なめたら、ピターってクシャミが止んだね。この飴をなめれば風邪だって何だって治っちゃう!嘘じゃない!信じないかもしれないけど、絶対に嘘じゃない!!」
私はアハハハと噴き出して、「健康なんで、要らないです(笑)」

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何も買わずに帰ろうとする私たち。
すると、私たちの背中に向かって、オバサンは叫んだのです。

露天のオバサン「助けると思って、なんか買って~!!」

帰ろうとしていた私は踵を返し、笑いながら「じゃあ、これ下さい(笑)」と、カリンのど飴を購入していました。
戦利品。

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小沢昭一さんの「ものがたり芸能と社会」という名著によると、
「啖呵売」は「芸能」のひとつとして紹介されています。
小沢昭一さんが取材したバナナ売りのテキヤも、《ずうっと口上を歌でやるんです。つまり売り口上そのものが芸でありました》。
小沢さんが縁日で出会ったコマ回しの芸人も居合抜き芸人も、芸を見せてから最後に歯磨き粉を売ったそうです。
《大体テキヤ稼業は、私ども芸能稼業の本家のように私は思っております》。
そして、
《テレビの画面の流れはもういわば縁日だというふうにも思われます。CMはもうタンカバイ、物売り芸ですし、芝居はもちろん、のぞきからくりも見世物もある。ニュースなど報道ものも、昔は「瓦版売り」「読売り」などといって、道の芸人の営業範囲でありました》。
なるほど、面白いなあ。

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「男はつらいよ」の寅さんの売り口上も、渥美清が少年時代にテキヤを見て覚えた啖呵売なのだとか。
「男はつらいよ」が始まる前、渥美清が、少年時代に覚えた売り口上を山田洋次に披露したことによって、車寅次郎というキャラクターが生まれたそうです。

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話は、下諏訪のいかがわしいオバサンに戻ります。
オバサンの口から出任せが立て板に水のように出てくる、ということに恐れ入った私。
見事な啖呵売(名人芸)を楽しんでしまったために、私は、カリンのど飴を買わざるを得なかったのでした。
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下諏訪にある「みなとや旅館」へ行きました。
老夫婦と娘さんで切り盛りしている小さな旅宿です。
昨年、私は夫婦旅行でうかがい、今回は大学の友人らとうかがったのです。

この宿は、東京やなぎ句会の定宿でした。
(東京やなぎ句会は、入船亭扇橋、永六輔、江國滋、小沢昭一、桂米朝、加藤武、柳家小三治らがメンバーで、毎月17日に集まって俳句会を開いていました)
やなぎ句会だけではなく、白州次郎・正子夫妻や小林秀雄なども常連客だったという宿です。 

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永六輔さんにすすめられて、みなとや旅館に泊まるようになったという小沢昭一さん。 

小沢さんいわく、
《さりげないサービス。/小さいからこそ、画一的でない細かい心配りが客に行きとどくのでありましょう。ここに、旅館業の職人的腕前が発揮されると思うのであります。/私はナキました。/これはもう「藝」でありましょう。》(新潮文庫 全国味の宿百選)

前回は、小沢昭一さんのことを中心に、女将さん(昭和2年生まれと言っていました)からお話をお聴きしました。

今回はどんなお話を聴けるでしょうか。それを楽しみに、友人を誘ったのです。

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宿に到着。
まず部屋でお茶を飲んでから、露天風呂につかります。

するとまもなく、夕食の時間。
足の悪い女将さんは私たちのテーブルの横にイスを置き、座りながら給仕をしてくれます。
諏訪ならではのおいしいお料理と地酒がテーブルを飾ります。

食事の時間は、女将さんへの質問タイム。
「やなぎ句会の皆さんが宿泊されるようになったきっかけはなんだったんでしょうか?」と訊くと、「永さんですね」。
初めて永さんが来たときのことはよく覚えていないとのことでしたが、永さんが定宿にした理由は、下諏訪温泉の源泉と関わっていたといいます。

下諏訪の源泉は、諏訪大社のすぐそばからわき出てくるため「御神湯」と呼ばれているそうです。
小林秀雄はこの源泉を「綿の湯」と名付けました。
(小林秀雄に命名された温泉なんて、すごいよなあ)

しかし!この源泉がわき出る場所が、駐車場になってしまった(しまう?)とか。
女将さん「御神湯を駐車場にしちゃうってスゴイ町でしょ?(笑)」
そんなわけで、
ご主人や女将さんらは「源泉復元運動」をしていました。
その運動に、なんと永さんが参加することになります。
永さんは「運動」と称し、芸人を連れて下諏訪へ通うようになり、しまいには下諏訪で「寄席」まで始めたのでした。
下諏訪の人たちは楽しかっただろうなあ。


(毎日新聞より)

「永さんには感謝しています」

そんなわけで永さんは、ここを定宿にしたそうです。
女将さんがいうには、永さんが書いた「ゆ」の文字の看板がこの宿の露天風呂に行く途中に立てかけてありますよ、とのこと。
(ちなみに、小林秀雄の書いた『綿の湯』の看板は立てかけておらず、蔵の中で大切に保管してあるそうです(笑))

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そういえば、
永さんは社会運動を楽しんで、エンターテイメントにまでしてしまう人でしたね。
「尺貫法復権運動」なんていうのは代表的な例です。
尺貫法は、職人の世界から切っても切れない計量法です。

かつて日本で、メートル法を取り入れる法律ができます。
早くメートル法に切り替えたいと考えた政府は、旧来の尺貫法を用いると罰則を与えることに決めました。
(いまにして思えば、ムチャクチャなことだと思いますね)
そんなときに永さんが「尺貫法復権運動」をし、運動自体をエンターテイメントにしました。

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夕食に話を戻します。
(※ほろ酔いだったので聞き違いがあると思いますのでご容赦を)
女将さんは私たちの杯にお酒をつぎながらお喋りをしてくれます。

前回、下諏訪に来たときのこと。
私は下諏訪の路地裏にある小沢昭一さんの句碑を眺めていると、見知らぬおじさんに声をかけられ、「小沢昭一と永六輔と岡本太郎が、みなとや旅館の娘さん結婚式に来たんだよ」と言われたという話を思い出した私。
そこで、女将さんに「永さんや小沢さんが、娘さんの結婚式に出席したって聞きました本当なんですか?」と尋ねました(検証してみました)。

女将さん「永さんは、(白州)次郎先生と正子先生に会いたがっていましてね。はじめは忙しいと言ってたんですが、次郎先生と正子先生もお見えになりますよと言ったら、永さんが仕事(通院?)の合間に駆けつけてくれたんです」
小沢昭一さんも出席する結婚式。
多忙な永さんは、小沢さんもラフな格好で来ると聞いていたため、仕事先からジーンズで来場。
すると、小沢さんはスーツをビシッと着ていたとか。
そんなわけで永さんは、会場の隅に隠れたそうですよ。

岡本太郎が乾杯の音頭をとることになり、一同はグラスを持って席を立ちます。
すると、そこから岡本太郎は延々とスピーチをします。
女将さん「岡本先生がお酒を飲み過ぎるんじゃないかと気が気じゃなかった・・・。岡本先生が行こうとするテーブルに先回りをしてお酒を隠すのが大変でした」
乾杯の発声は少々長かったけれど、あとで聞き返せば素晴らしいスピーチだったそうですよ。

なんて豪華な結婚式でしょう。
興行になりますね。

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永さんは筆まめで知られています。
この旅宿にも無数のお便りが届いたそうです。
文章は一行だけの絵はがき。
たった一行しかないのに届いた人には永さんの言いたいことが明確に伝わるお便りだったそうです。 

あるとき、
永さんから「そのうち車イスで参上」というお便りが届いたとのこと。

「永さんからこのハガキが届いたあと、実際に車イスでお見えになったんですか?」
すると、女将さんはうつむき加減で首を横に振りました。

そろそろ夕食の時間はおひらき。
とてもおいしい料理と地酒。そして女将さんにお付き合いをしていただいたそれはそれは楽しい時間でした。

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翌朝。
木漏れ日と鳥のさえずりで目が覚めます。

お酒を抜くために、朝風呂へ向かった私。
すると、
あった。 

あらためて入る「綿の湯」(?)は、木々の香り漂うポカポカするお湯でした。

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チェックアウトの時間まで散歩をすることにしました。
さあ、下諏訪を散策です。

すると、
さっそく永さんの痕跡がありました。
《綿の湯 永六輔》

(※散策のことはまた後日書きます)

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下諏訪旅行から戻り、夢から覚めたように翌日からは仕事の日々が始まります。

仕事をしながらラジオを聴いていると、耳に飛び込んできたのは、永さんの訃報。
7月7日にお亡くなりになっていたそうです。

ということは、私たちが下諏訪で無邪気に永さんの噂話をしていたときには、すでに亡くなっていたということになります。

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永さんの血や肉や骨は、AMラジオの電波に溶け込んでいるような気がします。
いまのラジオ(特にTBSラジオ)は本当に楽しい放送をしていると思います。
永さん、ラジオを楽しいものにしてくれて有り難うございます。

さらに、図々しい私ときたら、
最後の最後に下諏訪での楽しい時間まで永さんからプレゼントしていただいていたのですね。
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(前回の日記の続き)

息子が産まれ初めて3人で家族旅行に行はきました。
場所は、上諏訪温泉。
(清潔なホテルへ到着し、「喜劇 駅前温泉」で主役だった森繁久彌について思いを馳せた・・・というのは、前回の日記に書きました)

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ホテルの部屋も広々としていて、窓からは諏訪湖が一望できます。
夕食の前に部屋で軽くビールを飲み、大浴場へ。
森繁のように「あー、極楽、極楽」
(写真は「駅前旅館」より)
「駅前シリーズ」の1作目。

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部屋で、夕食をいただきながら地酒をちびちび飲みます。

お酒を飲みながら、
そのとき私は昼間に参拝した諏訪大社について思い起こしていたのでした。

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昼間のこと。
諏訪大社の上社(前宮と本宮)にお参りしました。

諏訪では、七年ごとに御柱祭が行われます。
今年はその御柱祭の年でした。
(私が訪れた日は、祭のない日でしたが)
御柱。
本殿を囲むように4本の御柱が立てられています。
(諏訪ではこんなに小さな祠でも、よく見ると4本の柱が立てられているのですよ)

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こんな本を事前に読んでいた私。 
(「諏訪の神」「季刊 怪(特集 諏訪)」)

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御柱祭は荒々しい原初的な祭として知られていますね。
かつての人間(狩猟採集をしていた野生の人間)を感じられる祭です。
ちなみに、諏訪大社のご神体は、本殿の中にはなく、素朴なことに本殿のうしろにある巨木や山(自然そのもの)なのだとか。

今回の御柱祭でも事故がありましたが、
祭のあいだだけは日頃の「善悪」が逆転するような雰囲気がありますね。
(「季刊 怪」より)

近代という風船のように膨らんだ幻想の価値観に、巨大な御柱が突き刺さり風穴をあけて「野生の風」を吹き入れているような祭だなあと、写真を見るだけでも思えます。
一度、ナマで見てみたいものです。

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ホテルの夕食も終わり、地酒も飲み終えました。
早々に眠ってしまった私。

諏訪大社には4本の御柱が立っていますね。
翌朝、目がさめると、奇しくも、
宿のテーブルの上には、4本の空き缶と空きパックが立っていたのでした。
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