だいぶ前の話です。
妻君いわく「私、今年、厄年だから厄除けのお寺へ行こう」
ということで、松本市南方の山中にある、牛伏寺(ごふくじ)へ行ってきました。
「牛伏寺」という名前は、「牛伏寺断層」という地震のニュースで耳馴染みのある名前ではありましたが、実際の「牛伏寺」については存在を知らなかった私。
実は、厄除けで有名なお寺なのだそうです。
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車で、なにもない山道をくねくね、しばらく進んでいきます。
すれ違う車も少なく不安を感じていると、行き止まり。
そこが牛伏寺でした。
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神仏習合の名残か、本堂にはしめ縄が掛けられています。
(本堂)
かつては修験道も盛んだった神仏習合の寺院だったようです。
(私は牛伏寺という名前に「修験道めいている」とピンときてはいたのですが)
牛伏寺にあった由緒の説明看板によると、
かつて、善光寺へ経典を運んでいた《牛》が山道で倒れ、死んでしまったのだとか。
そこで、その地に牛を祀り、のちにその場所が牛伏寺となったといいます。
(牛の銅像)
私は、山形県の出羽三山のひとつである月山のことを思い出していました。
月山の別名は「臥牛山」(がぎゅうざん)です。
臥せっている牛の背中のように、標高の高い山がなだらかに連なっているため、そう名付けられたようです。
ちなみに、出羽三山(月山、羽黒山、湯殿山)は、修験と神仏習合の聖地です。
中でも月山(臥牛山)は、修験の修行の場所でした。
修験の聖地という共通点もあり、
松本の牛伏寺も、「牛が倒れて死んでしまった山」ではなくて「伏せった牛の背中のように連なった山」という由緒の方が素直だと思います。
「古代金属国家論」(内藤正敏・松岡正剛)という本によると、
聖地になる山には2パターンあるそうで、《ひとつはコニーデ型の火山》で、《もうひとつは連山型のサインカーブ型の山》とのこと。
ひとつめのコニーデ型は、円錐型の山のことで、例えば、富士山、赤城山、筑波山、大山、蓼科山、岩木山、鳥海山などがあり、コニーデ型の山を登って下りることは、《「ヨミガエル」という言葉が「黄泉」からきているように、地獄から黄泉へ行ってそこからまた帰ってくる》ことでした。
円錐型の山へ行くことで、生き直すという宗教体験ができるのです。
一方、連山型の山は、例えば、出羽三山や大峰・熊野・吉野などがあり、《入っても入っても山が続くことから、山伏が回峰修行する》ような、《プロの宗教集団が籠もる》山になるのだとか。
そういえば、戸隠も連山型ですね。
牛伏寺は修験が盛んだったのだから、やはり月山(臥牛山)のように連山型、つまり「伏せった牛の背中のように連なった山」という由緒の方が真実なのだと思いました。
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さて、牛伏寺の奥へ進むと、広く見どころたっぷりの境内が広がります。
(奥堂)
本堂をこえて、一番奥の「奥堂」には、立派な仏像(うち国の重要文化財は4つ)が安置されていました。
ズラーッと並ぶ、古くて大きな仏像は見事です。
ところで、なんでこんな山奥の寺に、たくさんの仏像が残っているのか。
不思議に思った私。
少し前に読んだ本(「仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか」(鵜飼秀徳))のことを思い出しました。
この本は、「廃仏毀釈」について書かれた本です。
明治時代に、「神仏分離」が掲げられ、それに過剰反応した地方の政治家が仏教破壊(廃仏毀釈)を行いました。
いくつかの土地では仏教が壊滅したほど。
「仏教抹殺」の中で、廃仏毀釈の激しかった土地がいくつか紹介されていますが、その中のひとつが長野県の松本市です。
昔から思っていたのですが、なぜか松本のお寺はコンクリートで建造されたものばかり。
長年の疑問がこの本を読んでスッキリしました。
廃仏毀釈により昔からあった寺院はことごとく破壊されたのです。
《(松本藩主の)戸田光則は、新政府にたいして極端な忠誠を示すようになり》、新政府への忖度で寺院破壊を推し進めます。
《1870年の1年のあいだに126ヵ所(約8割)が廃寺になった》そうです。
しばらく経って、仏教が再興した際に寺院が新築されたため、松本のお寺はコンクリートだったのです。
いつの時代も権力は、歴史や文化に敬意を払わないものですし、庶民の暮らしよりも、より大きな権力の顔色を覗ってばかりいるので蛮行を繰り返すのでしょう。
そんなわけで私は、牛伏寺のおじさん(従業員?)に尋ねました。
私「牛伏寺にこんなに立派な仏像が残っているのは、松本の廃仏毀釈が激しかったんで、仏像を山奥に疎開させたからなんですか?」
ちなみに、出羽三山の仏像も、廃仏毀釈により片っ端から破壊されたことになっていますが、一部下山させて破壊から免れたものもあると聞いたことがあります。
牛伏寺のおじさんの回答は、「疎開というより、ここはもともと松本藩じゃなくて、塩尻藩だったから仏像が残ったみたいですよ」
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本堂で私は参拝し、外に出ます。
すると妻君は、境内にある厄除けの案内看板を凝視していました。
妻君いわく、「あれ?この看板を見たら私、厄年じゃないじゃん!」
はるばる厄除けのためにここまで来たのですが・・・。厄年じゃなかったとは!
私はムリヤリ微笑み、「良かったね、厄年じゃなくて、ハッハッハ」と言いました。