厄除け日記 (by Kばやし)

厄除けのように、好きなことを集めて書きます。 30代。 俳号は軽囃子(けいばやし)

カテゴリ: 松本

だいぶ前の話です。


妻君いわく「私、今年、厄年だから厄除けのお寺へ行こう」

ということで、松本市南方の山中にある、牛伏寺(ごふくじ)へ行ってきました。


「牛伏寺」という名前は、「牛伏寺断層」という地震のニュースで耳馴染みのある名前ではありましたが、実際の「牛伏寺」については存在を知らなかった私。

実は、厄除けで有名なお寺なのだそうです。


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車で、なにもない山道をくねくね、しばらく進んでいきます。

すれ違う車も少なく不安を感じていると、行き止まり。

そこが牛伏寺でした。


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山門をくぐると、立派なお寺が突然あらわれました。

神仏習合の名残か、本堂にはしめ縄が掛けられています。

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(本堂)

かつては修験道も盛んだった神仏習合の寺院だったようです。

(私は牛伏寺という名前に「修験道めいている」とピンときてはいたのですが)


牛伏寺にあった由緒の説明看板によると、

かつて、善光寺へ経典を運んでいた《牛》が山道で倒れ、死んでしまったのだとか。

そこで、その地に牛を祀り、のちにその場所が牛伏寺となったといいます。

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(牛の銅像)


私は、山形県の出羽三山のひとつである月山のことを思い出していました。

月山の別名は「臥牛山」(がぎゅうざん)です。

臥せっている牛の背中のように、標高の高い山がなだらかに連なっているため、そう名付けられたようです。

ちなみに、出羽三山(月山、羽黒山、湯殿山)は、修験と神仏習合の聖地です。

中でも月山(臥牛山)は、修験の修行の場所でした。


修験の聖地という共通点もあり、

松本の牛伏寺も、「牛が倒れて死んでしまった山」ではなくて「伏せった牛の背中のように連なった山」という由緒の方が素直だと思います。


「古代金属国家論」(内藤正敏・松岡正剛)という本によると、

聖地になる山には2パターンあるそうで、《ひとつはコニーデ型の火山》で、《もうひとつは連山型のサインカーブ型の山》とのこと。

ひとつめのコニーデ型は、円錐型の山のことで、例えば、富士山、赤城山、筑波山、大山、蓼科山、岩木山、鳥海山などがあり、コニーデ型の山を登って下りることは、《「ヨミガエル」という言葉が「黄泉」からきているように、地獄から黄泉へ行ってそこからまた帰ってくる》ことでした。

円錐型の山へ行くことで、生き直すという宗教体験ができるのです。

一方、連山型の山は、例えば、出羽三山や大峰・熊野・吉野などがあり、《入っても入っても山が続くことから、山伏が回峰修行する》ような、《プロの宗教集団が籠もる》山になるのだとか。

そういえば、戸隠も連山型ですね。


牛伏寺は修験が盛んだったのだから、やはり月山(臥牛山)のように連山型、つまり「伏せった牛の背中のように連なった山」という由緒の方が真実なのだと思いました。


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さて、牛伏寺の奥へ進むと、広く見どころたっぷりの境内が広がります。

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(奥堂)

本堂をこえて、一番奥の「奥堂」には、立派な仏像(うち国の重要文化財は4つ)が安置されていました。

ズラーッと並ぶ、古くて大きな仏像は見事です。

ところで、なんでこんな山奥の寺に、たくさんの仏像が残っているのか。

不思議に思った私。


少し前に読んだ本(「仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか」(鵜飼秀徳))のことを思い出しました。

この本は、「廃仏毀釈」について書かれた本です。

明治時代に、「神仏分離」が掲げられ、それに過剰反応した地方の政治家が仏教破壊(廃仏毀釈)を行いました。

いくつかの土地では仏教が壊滅したほど。

「仏教抹殺」の中で、廃仏毀釈の激しかった土地がいくつか紹介されていますが、その中のひとつが長野県の松本市です。

昔から思っていたのですが、なぜか松本のお寺はコンクリートで建造されたものばかり。

長年の疑問がこの本を読んでスッキリしました。

廃仏毀釈により昔からあった寺院はことごとく破壊されたのです。

《(松本藩主の)戸田光則は、新政府にたいして極端な忠誠を示すようになり》、新政府への忖度で寺院破壊を推し進めます。

《1870年の1年のあいだに126ヵ所(約8割)が廃寺になった》そうです。

しばらく経って、仏教が再興した際に寺院が新築されたため、松本のお寺はコンクリートだったのです。

いつの時代も権力は、歴史や文化に敬意を払わないものですし、庶民の暮らしよりも、より大きな権力の顔色を覗ってばかりいるので蛮行を繰り返すのでしょう。


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(開智学校は廃寺の建材を利用して建てられたそうです)


そんなわけで私は、牛伏寺のおじさん(従業員?)に尋ねました。

私「牛伏寺にこんなに立派な仏像が残っているのは、松本の廃仏毀釈が激しかったんで、仏像を山奥に疎開させたからなんですか?」

ちなみに、出羽三山の仏像も、廃仏毀釈により片っ端から破壊されたことになっていますが、一部下山させて破壊から免れたものもあると聞いたことがあります。

牛伏寺のおじさんの回答は、「疎開というより、ここはもともと松本藩じゃなくて、塩尻藩だったから仏像が残ったみたいですよ」


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(読んだ本)


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本堂で私は参拝し、外に出ます。

すると妻君は、境内にある厄除けの案内看板を凝視していました。

妻君いわく、「あれ?この看板を見たら私、厄年じゃないじゃん!」


はるばる厄除けのためにここまで来たのですが・・・。厄年じゃなかったとは!

私はムリヤリ微笑み、「良かったね、厄年じゃなくて、ハッハッハ」と言いました。

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松本へ吟行で行ってきました。

参加したメンツは、大学のサークルゆかりの仲間(Aしざわさん、Hまくん、Mやさかくん)と、長野市の老舗和菓子屋のYまもとさんと電気屋のKぼさん、それと私の計6人。

皆で松本を散策しながら俳句を作り、最後に宴会を兼ねた句会をするというプランです。 


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実は、10年以上前、私は松本に3年ほど住んでいた時期があります。

松本での3年間は、生活(仕事)と私の精神がまったく一致していなかったひたすら苦しいだけの人生における「暗黒時代」でした。

仕事と飲酒の繰り返し。

例えるなら、ハイセンスで芸術系のリア充学生のような松本の町と、ズタズタのその日暮らしの放浪者(「暗黒時代」の私)とでは当然仲良くなれるわけもありません。

孤立した当時の私は、松本ならびに世の中を呪うようになっていました。


そんなわけで今回は、私にとって苦い思い出があちこちに転がっている町を歩く吟行でした。


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松本吟行ということで、心を武装して臨みました。

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( 「ミナミの帝王」より)


快晴の朝。9時に松本駅に集合。

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「お久しぶりです」


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まずは深志神社までの昔ながらの絵になる路地を歩きます。

薬局も、古い建物のまま営業中。

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ポスターも古いまま、「のりピー」(写真左)。

これも、歴史的な価値から外さないのだろうと推断しました。


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木漏れ日の気持ちのいい深志神社(撮影Kぼさん)。

鳩も気持ちよさそうに鳴いていました。


《鳩の声の出どころ春の正体よ Mやさか》

※これは、句会で私が選句したMやさかくんの俳句。


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松本は、民藝の町というだけあって、町中にさりげなくギャラリーや古美術店があります。

石材店に隣接して、「自遊石」という石で作った作品のギャラリーがあり、見学することにしました。

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遊び心のある作品の数々(撮影Kぼさん)。

値札が貼ってあるかしらとこっそり作品を裏返したのですが、値札はありませんでした。 


ギャラリーを退室するや否や、句友の面々は、作品の「原価はいくらか?」「売価はいくらか?」などと喧々諤々。

さすが我が句友だと思いました。


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松本出身の芸術家といえば、草間彌生です。

いま松本市美術館では草間彌生の特別展が開催されています。


私が松本に住んでいた「暗黒時代」のこと。

当時も松本市美術館で草間彌生の特別展があり、見に行ったことがありました。

そのとき、草間は松本での暮らしがあまりに苦しくて脱出したと知り、その一点で信頼に足りる作家だと思ったのです。

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幻覚幻聴、強迫観念のような無意識の苦しみを突き抜けたような作品。


《風光る水玉模様が覆う街  Aしざわ》

※これは、私が句会で選句したAしざわさんの俳句。


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つくづく優等生のような街だなあ、なんて思いながら歩いていると、ガラの悪い男たちが、暗い色調の無機質な建物からぞろぞろ出てきました。

真っ暗な玄関から、奥を覗くと・・・、ああ!やくざの事務所だ!

松本にも人間らしいところがあるじゃないか。


《春風を入れるやくざの事務所かな   Kばやし》


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あがたの森には、旧制松本高校の校舎(重要文化財)が保存されています。

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(撮影Kぼさん)

旧制高等学校はエリートが集う学校で、有名な出身者として北杜夫や熊井啓などが知られています。

旧制高校の資料館に入ると、北杜夫が学生時代を語るムービーが放映されていました。 


北杜夫は躁鬱病ということもあり、案の定ろれつが回っていませんでした。

「私が学生のころは校舎のまわりは草も生えてませんでしたね」

というのも、学生は2階の窓からこぞって放尿をしたからというのです。

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(寮雨と呼ばれた放尿)

当時の学生はバンカラで肩を組んで大声で寮歌を歌ったんだとか。


《我慢して寮歌を歌う四月かな   Kばやし》


話は変わりますが、

実は2ヵ月ほど前、句会の予習になればと、こそこそと家にあった「マンボウ遺言状」という北杜夫の晩年のエッセイを読んでおいたのです。

吟行の最中、あの本の中に俳句のネタになるような記述はあっただろうかと、本の内容を思い返していました。

で、「マンボウ遺言状」で印象深かった部分を頭の中で並べてみると・・・、

1、作家の中村真一郎はインポ。

2、ゲーテは早漏。

3、作家の埴谷雄高は無類のエロ。(にもかかわらず、難解な作風のため気付かれていない)

4、北杜夫は躁状態のとき、中央公論の嶋中鵬二社長に対し「お前は人間じゃない!チンパンジーだ!」と罵ったこと。

5、躁状態のときに株に夢中になり破産したこと。

句作にまったく役に立たない本だったということに、散歩をしながらようやく気がついたのでした。


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井戸の多い路地を選んで、散歩は続きます(撮影Kぼさん)。


道々にセンスの良い個人店が並んでいます。

笑顔で歩く人々とすれ違い、さらに、その町を横断する女鳥羽川の清流を眺めていると、つくづく非の打ち所がない町だと感じました。

こういうスキのないところが苦痛だったんだよなあと「暗黒時代」の記憶に浸っている私。

すると、20年近くの付き合いのあるAしざわさんが、私の心を読み取ったかのように、 

「むかしから《白河の 清きに魚も 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき》っていう言葉もあるからね」

いやあ、「田沼恋しき」。いいこと言うねえ。


旧姓松本高校があった頃から営業をしているという食堂でランチ。

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Yまもとさん、Kぼさんは、アルコールを補充。

私もお裾分けをしてもらいました。


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4月なのに夏のような暑さです。

《ふじだなにクマバチ遊ぶ春深し Kぼ》

※私が句会で選句したKぼさんの俳句。


暑い上に、松本城を横切ったころには我々の足はプルプル震え出しました。

心の中で「もう帰りたい・・・」と呟く私。


しかし、趣味が散歩でメンバー1の健脚であるYまもとさんは「まだ時間あるし北の方へ行ってみようか!」とのこと。

心の中で「ひえー」と叫び、頭を抱える私。

そこで、

座りたい一心で、私は、和菓子職人でもあるYまもとさんに、「この近くに開運堂(名門和菓子屋)の経営する『松風庵』という喫茶店がありますんで、せっかくなんで見学しませんか?」と、Yまもとさんの好奇心をくすぐる提案をしました。

Yまもとさん「松風庵か・・・。いいね」

「ばんざーい!」と心の中で叫ぶ私。


松風庵の喫茶店で飲んだ、抹茶アイスラテのおいしかったのなんの。

石造りのオープンテラスに疲れが吸い取られるようでした。

休憩が終わり、路線バスで句会の会場へ向かう気でいる私たち。

スマホで路線バスの時刻表を見ていると、

Yまもとさん「帰りは、違うルートを歩いてみようか!」

その信じられない言葉を聞いたとき、私は白目をむいて失神しそうになったのでした。 


《抹茶アイス松風庵に春の夢 Yまもと》

※私が句会で選句したYまもとさんの俳句。


結局はバスで句会の会場である駅前の焼肉屋へ向かうことになりました。


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駅前の焼肉屋に集まり、いよいよ句会が始まります。

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(句会の様子)


酒とおつまみを注文し、景気をつけて句作をします。

ルールは、それぞれが匿名で俳句を提出し、互選で俳句を選び、点数を競うというものです。


制限時間以内に俳句を5句提出します。

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(苦吟する私)

俳句の講評をしながら宴会を楽しみます。

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恐るべき句友たち(左がHまくん、右がMやさかくん)


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日が沈むころ、「ごきげんよう!また近いうちに」


私にとって松本は、記憶の地雷がたくさん埋まっている町だと改めて思いました。

しかし今回の吟行で、「暗黒時代」の地雷を除去、つまり、町の記憶を更新することができたように思いました。



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金子兜太(96才)と、黒田杏子(76才)の公開対談がありました。
もちろんレッツゴーです。

場所は、松本のホテル。
俳句に関心のない細君も同席しましたよ。
会場に着くと私の大学の後輩もいるではありませんか。

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BSで数週間前、金子兜太先生を見たときは、ホストの関口宏をたじたじにさせているほどでお元気そのものでした。
さて、今日はどうでしょう・・・、

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金子兜太は、杖を右手に持っているだけで使用せずにスタスタ歩いて登壇。
一方、黒田杏子は、杖をフル活用してゆっくり登壇していました。やっぱりモンペみたいな服を着ていましたよ。

そして、対談が始まります。
黒田「金子先生にとって松本はどんなところですか?」
金子「妙なところでござんすな、ここは」
ふふふ。
明晰な口調でした。

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(1)尿瓶
健康の秘訣を尋ねられた金子兜太。
俳句ファンには有名な「尿瓶トーク」がひとくさり。
金子先生のお父さんは、冬の夜、便意で目が覚めトイレに立ったときに亡くなりました。 
そのため、金子兜太は尿瓶を若いうちから使用しているのです。

長野の湯田中温泉に、小林一茶の弟子の末裔が住んでいるそうで、湯田中へはよく泊まるという金子先生。
金子「夜中の具合が良くないんだ。尿瓶の前に座敷にしそうになったんだ。湯田中はそういうところでござんすな」

そして、健康の支えである尿瓶を会場の聴衆にも推薦します。
金子「尿瓶は、女性がダメなんだ。これだけ言っても無反応なんだ。広い家にいる人もないだろうが、尿瓶を使うように話しても婦人は恥ずかしがるんでござんすよ。これは後進国の状態だ。後進国というのは、女性が尿瓶を使えない、これは半封建制を脱していないんですな。私は、男女平等をひたすら願う」
暴力的な論理がすばらしいですね。

(2)子供は若いうちに産むべき
金子兜太は、母親が17才のときに産んだ子供でした。
若いときに産んだもらったために健康な体を得たと金子先生は考えているんですね。科学的にはどうなんでしょうか。
金子「母親は104才で亡くなったんでございますよ。亡くなる前に会いに行ったら私に向かって『ヨタが来たね、ヨタが来たね、バンザーイ』と言ったんだ。私は、いまだにこの言葉に励まされているんです。なにせ17才で産んで育ててもらった恩があるんでござんすよ。
40代でムリして産んで、それで子供を持ったってしょうがない(会場笑)。どんどん先に産んで、それから人生設計をして下さい。産むだけなら15才でできる。これだけ言ってやらない人はバカだ」
(これは極論でしょうが、原始人の感覚では正しい気もしますね。ただ現実は、それが許されない社会でもあるんですけど)

(3)立禅
仏教の禅とは関係ないとのことですが、金子兜太は毎日、立ちながら自分にとって大切な人々(故人)の名前を読み上げる習慣があります。
金子「(戦場を経験して、仲間や両親、愛妻を喪い)自分だけ生きているのは、無礼であると思ったんだ。その人たちの、名前だけを読み上げるんです。バカヤロウとかそういったことは言いません。名前を読み上げるだけでスーッと気持ちが落ち着いてくる。禅とはこういう気持ちになるんだなと思ったんです。立ってやるんでございますよ。座ると眠くなるんでね」

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(4)小林一茶
黒田杏子が、小林一茶について話を聞かせてほしいと話題を振ると・・・、
金子「長くなるから他の話をしましょう」
(会場笑)
でも、黒田さんがムリヤリ小林一茶の話題にしましたよ。

金子先生の作風は荒々しく動物的であるため小林一茶と親和性が高いのです。 

小林一茶には子供が4人いたのですが、全員幼少のうちに亡くなりました。
子を喪ったときに詠んだ句が、
《露の世は露の世ながらさりながら》

数年後、
《蛍来(こ)よ我拵(こしらへ)し白露に》
この2句はペアだと言います。
きっと「白露」は、死んでしまった娘の記憶のことなのかもしれないなあと私は思いましたよ。
金子「動物も植物も自由に感じる。一茶ほどアニミズムを分かっている詩人は少ないと思うな」

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隣の細君を見ると、俳句に興味がないと言いながらも何やらメモを取っている様子。
メモを覗くと・・・、
嫌な予感が的中! 

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(5)戦場と日銀と秩父
金子兜太は、東大を卒業したのち、日本銀行で勤務をするのですが、第二次大戦に巻き込まれます。
24才で南方の戦地(トラック島)へ招集されるのです。
そして、27才で敗戦。

多くの仲間が命を落とす中、トラック島をあとにしました。
《水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る》
有名な俳句です。

戦後、日本銀行へ復帰。
組合運動をしたり、俳句にのめり込んでいたために金子先生は左遷の連続だったんですねー。
日銀長崎支店にて。
《原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫歩む》
《湾曲し火傷し爆心地のマラソン》
逃げる姿でしょうか。

金子兜太は、秩父の山村で、医者であり俳人だった父と母の元に生まれました。
秩父にて。
《おおかみに蛍が一つ付いていた》
秩父に句碑が立っているそうです。

《霧の村石を投(ほう)らば父母散らん》
この「父母」は、金子先生を育んだ秩父の生き物たち(精霊?)のことでしょうか。

《暗黒や関東平野に火事一つ》
無季の俳句。
無季でも良いという主張が、ファンとアンチの幅の広さに繋がっていると思われますね。

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(6)戦争体験者として
金子先生はアメリカで文学賞を受賞したとか。
金子「アメリカで、賞をもらったっていうんだ。しょうがない賞、本当にこれはしょうがない賞かもしれませんがね」
そのとき、研究者から賛辞を受けた俳句というのが・・・、

《梅咲いて庭中に青鮫が来ている》
この俳句は前から知っていましたが、意味を理解できていませんでした。

金子「ラバウルの戦場で、アメリカの潜水艦に日本の船が何艘も沈められたんです。アメリカの研究者が言うには、その戦場での体験がいまだに私の日常に潜んでいるというんだ。当たり前の梅の風景を見ても、やはり戦場体験者なんでござんすよ。
24才から27才までトラック島にいたんですがね、日本人の死体がいくつもプカプカ海に浮いているのを青鮫が食べにくるっていう話を聞いていましたからね」

その上で、残り少ない人生でするべき仕事は、「戦争体験者としての詩人の仕事に絞った」と言います。
金子「戦場は非常に残酷なんだ。日本人は噛み締めが甘いんじゃないか。政治家は、集団的自衛権なんて言ってますがね、どこか他人事なんだ。石鹸の泡を膨らませたようなこと言っているが、その妄を質したいと思っているんでございますが」

最近の金子兜太作品の、黒田杏子選からいくつか。
《今も余震の原曝の国夏がらす》
「曝」は原子力発電所の方の「曝」とのことです。

《被曝の人や牛や夏野をただ歩く》

《原爆忌被曝福島よ生きよ》
福島は、日銀時代に最初に左遷されたところです。

《相思樹(そうしじゅ)空に地にしみてひめゆりの声は》
沖縄で詠んだ句とのこと。

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隣の細君はというと・・・、
就寝。

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(7)無季の俳句
アメリカで日本の俳句が愛好されている理由は「短詩」だからであり、「花鳥諷詠」が評価の理由ではない、と断言する金子先生。
無季俳句や自由律に近い俳句をたくさん詠んでいますしね。

金子「花鳥諷詠なんていうのは、俳句の一部だ。アメリカ人にとっては、季語に魅力があるんわけじゃないんでござんすよ。詩の型式に魅力があるんだ」
この辺で、ホトトギスあたりと対立しています。(これが面白い)
金子「私は、『季語』より『事語』、事がらの言葉、と申したい。『じ』は、お尻の問題じゃないんだ。それが詩の言葉になる」

(このあとに欧米の詩人が実際に詠んだ「俳句」を紹介していましたが省略)

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(8)質問コーナー
俳句を有季定型で実作していると思われる年配の女性から質問を受けて・・・、

金子「私はいまだに『水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る』という句に人生を支配されている。人生を詩そのもので語ればいいんだ」
実作へのアドバイスをしていました。(なかなかできないと思いますが)

その話の補足として、黒田杏子が、石牟礼道子の俳句(句集)の話をします。
(私は石牟礼道子の書いた水俣病を扱った小説のちょっとしたファンでもありましたから耳を傾けましたよ)

《祈るべき天と思へど天の病む》

《さくらさくらわれの不知火(しらぬい)ひかり凪(なぎ)》
不知火は、石牟礼道子の故郷の不知火海のこと。

黒田「私は、有季定型の句を作りますが、石牟礼さんの『祈るべき天と思へど天の病む』は、無季ですね」

ちなみに、
宮坂静生(俳人)も客席からマイクを持って話しましたよ。

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対談が終わり、閉幕。
サイン会でサインをいただいてお開き。

金子節を、満喫しました。
戦争反対という主張は道徳的に見えますが、その一方で、暴力性も野性も備えていて一筋縄ではいかない本能がたまらない魅力だと思ったのですよ。
例えば、
戦中、仲間を食べた暴力の象徴のような「青鮫」のことが「私は嫌いじゃないんでござんすよ」。
実際、戦後、南方まではるばる青鮫に会いに行ったそうです。
しかし、「青鮫の方が恥ずかしがって、会えなかったんでございますがね」。
なんて話は奥深いなあと思われたのですよ。

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帰り道、私は細君に尋ねました。
「起きてた?」
「うん」
「じゃあ感想は?」
「会場全体が、あの世へ行くノアの箱船みたいだなーって思った」

こらこら。

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