何日も前のことですが・・・。
吟行の翌日、松代へ散策に行きました。
松代は、長野市南部の真田家ゆかりの城下町です。
関ヶ原の戦いの前、上田藩主だった真田昌幸は息子2人と真田家を残すため身の振り方について話し合ったといいます。
父(昌幸)は次男(信繁)と共に西軍に、長男(信幸)は東軍に与し、どちらが勝ったとしても真田家だけは残そうと父子訣別をしたのです。
結果、戦は東軍が勝利。
生き残った長男(信幸)は、上田藩から松代藩へ移り、以降、松代は真田家が治める城下町になったのです。
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松代にて。
まずは、「真田邸」へ行きました。
金沢にある前田家の兼六園はすみずみまで豊かな文化を感じさせますが、それと比べると、真田家の「真田邸」はかなり質素です。
貧乏藩ゆえ殿様も地味だったのかななんて思っていました。
ところが、
「真田邸」のあとに訪れた「真田宝物館」のボランティアガイドの方(博学!)の解説によると、真田邸は、幕末のころに殿様の義母のために建てられた屋敷で、実際は数年しか使用されなかった建物だったとか。
殿様は、もっと広い「花の丸御殿」(いまは焼失)に住んでいたそうです。
もともと松代城に住んでいたものの、不便だったため「花の丸御殿」を作り移り住んだのだそうです。
贅沢なことに、ボランティアガイドの方の解説をつきっきりでみっちり聞きながら、宝物館の展示を見学しました 。
印象的だったのは、江戸時代の殿様はインテリで、例えば「源氏物語」を読み、書画や陶芸などあらゆる文化に精通した知識人(道楽者)だったということ。
私は心の中で「おみそれしましたー」と頭を垂れていたのです。
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「真田幸村の謀略」(東映)という、東映史観で歴史を描いた時代劇があります。
私は、この映画で真田家の歴史を歪んだ形で学んでいました。
松代の真田家の歴史は、真田昌幸(父)、真田信幸(長男)から始まりました。
東映の真田昌幸(御大・片岡千恵蔵)
東映の真田信幸(梅宮辰夫)
徳川家は豊臣家を破ったのちも真田家を警戒していたそうです。
そのため、真田家は上田藩よりも不便だった松代藩へ移されたようです。
徳川家康は油断しない男です。
東映の徳川家康(萬屋錦之介)
石田三成の頭蓋骨で、酒を飲む萬屋家康。
それにしても、役作りがトンチンカンな方向に振り切れています。
家臣に「酒の味はいかがですか?」と訊かれ、「うーん・・・カビ臭い」
わが句会の殿様も、樽酒と書かれたワンカップを後ろ手に「恩田家の屋敷」を散策。
私が「おいしいですか?」と訊くと、「なかなかいい味」
松代の町には、真田家の重臣の屋敷が何軒も残っており、見学できるようになっています。
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象山神社に向かいます。
幕末の志士、佐久間象山を祀った神社です。
皆で手を合わせて、参拝。
帰り道、「何を祈願したか」という話題になりました。
Kぼさんいわく「佐久間象山先生より長く生きているから、なにもない」。
願うとすれば、「平和」くらいのものだそうです。
私はといえば、
いつも、神社で手を合わせてから初めて何を祈願するか悩み、「酒池肉林にしようか、でも、本当に酒池肉林になったらマズイな、酒池肉林が現実になったら地獄だぞ、どうしよう・・・」なんて考えているうちに手を合わせる時間が終了してしまうのです。
考えてみると、神様にお願いしたいことなどないのかもしれないですね。
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象山神社の敷地内に「努力・勇気・情熱」の石碑を建てる予定があるとのこと。
(松代とゆかりがあると思えない幕末の人気者たちの銅像も次々建つのだそうです)
なんだか「努力・勇気・情熱」という、まるで週刊少年ジャンプの方針のような、標語のような石碑を建てるセンスに、私は口をあんぐりさせながら象山神社をあとにしました。
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さて、「真田幸村の謀略」の結末はどうなったか。
東映史観の大阪夏の陣。
どういうわけか、真田幸村と徳川家康の一騎討ちになります。
真田幸村(松方弘樹)
徳川家康(萬屋錦之介)
萬屋家康の首を目がけて、斬り込む松方幸村。
家康の首を一刀両断。
すると、萬屋の頭がポーンと上空へ。
まるで、首がシャンパンのコルクのようにポーンと舞い上がります。
たがやー。
(物理的におかしい)
つくづく東映の時代劇は歴史の勉強の教材に最適ですね。
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