五月の連休。
ただいま旅行中です。

下諏訪へ。
「下諏訪は小沢昭一好みの町」という文を読んで。
(あしたのこころだ  三田完)

この本の中に、「小沢昭一的こころ」の台本作家である三田完さんとノーテンキプロデューサーの坂本さんが、下諏訪へ小沢さん追悼の旅をしたという報告が載っています。
これをガイドブックに、いざ下諏訪。

================

宿は、小沢昭一さんが定宿にしていた「みなとや旅館」です。
ここに泊まりたかったんですよ!

小沢さんいわく、
《さりげないサービス。/小さいからこそ、画一的でない細かい心配りが客に行きとどくのでありましょう。ここに、旅館業の職人的腕前が発揮されると思うのであります。/私はナキました。/これはもう「藝」でありましょう。》
小沢さんが実名を挙げて褒めるなんて、珍しいことです。

================

親子だけでやっているこじんまりとしたお宿でした。
(数組しか泊まれないと思われます)

部屋に着くと、女将さん(昭和2年生まれと言っていました)がお茶を淹れながら、
「まあ。小沢昭一さんのファンなんですか?小沢さんはカタい人でしたよー。ヤワラカい話をするけれど、そういう人に限ってカタいんですね」。

続けて、
「小沢さんのラジオ番組の10000回記念でうちに寄ってくれて、そのときはずいぶん調子が悪そうで、お付きの人の肩を借りてヨロヨロしながら玄関までお入りになってずーっと眺めるだけ。お誘いしても、お上がりにならないで玄関で眺めるだけでした。抱えられるようにお帰りになるのを見て、お見えになるのも最後かな、なんて思いました」
そのころラジオで聴いていて、小沢さんは元気なものとばかり思っていた私。

さらに続けて、
「それからしばらくして、小沢さんの奥様から電話があって、小沢さんは退院をしたんだけれども、延命を拒否していたらしくて。奥様は泣いていました。1時間近くお話をしましたよ」
そのころラジオでは、永(六輔)さんが小沢さんの退院の報告をしていて、
《退院の一歩一歩の落葉かな》
という小沢さんの俳句のとおり、散歩をしている小沢さんの姿を信じていた私。

いきなりいい話。

================

町歩きを。晩御飯の時間まで。
気持ちのいい季節ですなー。

すると・・・、
小沢昭一さん句碑もありましたよ
《夕顔やろじそれぞれの物がたり》

ノーテンキプロデューサーの坂本さんの、小沢さんと最後に下諏訪へ来たときの話を思い出しました。
《それほど大きな句碑ではないんです。(小沢さんは)その石に寄り添って、何度も手で触れておられましたよ。まるで、お孫さんの頭を撫でるような感じで。その様子を眺めていた私たちも、胸がじんわり熱くなりました》

小沢さんの句碑を眺めていると、
ワインボトルを持った地元のおじ様(ほろ酔い?)と遭遇。
いわく、「小沢さんは、路地が好きで、表通りは、よそ行きの姿だからつまらないって言っていたよ」。
絡まれた私。

おじ様「みなとやさんに泊まってるの?みなとやの娘さんの結婚式に、小沢さんも来ていたんだけどさ(!!)、路地と表通りの差が面白いなんて言って、結婚式のとき我々のような者 話しかけてもそっけない態度をとるんだけれどマイクを持つと上 機嫌になって 営業用の姿になるのが面白かったなー」
すごい話!!

さらにおじ様、
「その式で、永さんはジーンズとスニーカーだったよ。いやー、面白かったなー」
永さんも来ていたの!?すごい!

さらにさらにおじ様、
「岡本太郎なんか、祝辞でも『爆発だー』だもん。面白かったなー」
すごい・・・。

================

宿にもどります。

あれ?廊下の隅に・・・、
直筆の句碑の下書きが飾ってあるではないですか。

================

さて、晩御飯です。

我々の隣の席には、一組の若いカップルがいまして、女将さんは給仕をしながら私たちの話相手をしてくれます。
どうも隣席の男性は、白州次郎のことが好きらしいのです。
すると、
白州次郎・正子夫妻は、みなとやを定宿にしていたため、女将さんはペラペラと神話の語り部に変身しました。

白州夫妻だけじゃなく、小林秀雄、田辺聖子、やなぎ句会の面々の話など、そうそうたる人たちのゴシップが聞き放題、なんですねー。

実はここから先が面白いのですよ。
でもまだ旅先ですので。

続きは、(またあしたのこころだー)ということにしておきましょう。